「新たな旅へ」の第2回リサイタル・シリーズを迎えて
2002年1月9日、その年の初のステージをフィンランドのタンペレ市でもったが、最後の曲を弾き終え、お辞儀をしたところでステージ上に崩れ落ちた。脳溢血だった。右半身不随となり、リハビリに努めたが、一度破壊された神経組織はなかなか元には戻ってくれない。音楽に見放されたと思う日々は辛かった。友人たちは、「ラヴェルの左手のための協奏曲を弾けばよい」と慰めてくれたが、却って「おまえのピアニストとしての寿命も終わりだな」と宣告されたようで情けなかった。左手のピアノ曲なんて糞食らえだと思った。
そんな私に生きかえる力を与えたのは、4年間シカゴに留学していた長男が、帰省する時に持ってきてくれたひとつの楽譜、ブリッジ作曲の「3つのインプロヴィゼーション」だ。
第一次世界大戦で右手を失った親友のピアニストのために書かれた左手の作品である。弾いてみると蒼い大海原が現れた。水面がうねり、漂い、爆ぜて飛沫をあげているようだった。自分が閉じ込められていた厚い氷が溶けて流れ去るのが分かった。音楽をするのに左手だけあればなにひとつ不足はしない。充分にして十全な表現が出来る。そのことをしっかりと納得した。
東京をはじめ各地で復帰演奏会をしたのは2004年5月。長年の親友である間宮芳生さんとノルドグレンが見事な新作を書いてくださり、音楽と友情が与える限りなく大きな力により、私は文字通り生還したのだった。多くの方々が待っていてくださり、還ってきたのを心から喜んでくださったのも、ただただ有難かった。弾けるということがひたすらに嬉しくて幸せで、夢中であったように思う。65年もピアノを弾いてきて、こんなに無心に音楽が出来るなんて想像もしなかった。弾くことに、私はよほど飢えていたのだろう。
翌2005年には吉松 隆、林 光両氏の素晴らしい作品が生まれ、40回ほどの演奏会で弾くことが出来た。CDで「タピオラ幻景」を聴いた人から「できれば一日中聴いていたいくらいです」とのお言葉をいただいたのが胸に沁みた。ヴァイオリニストの加藤知子さんが声をかけてくださり、コルンゴルドのピアノ四重奏で室内楽の世界に帰り、長年共演を続けてきた日本フィルが早速、協奏曲のステージに手を差し伸べてくれもした。小林研一郎さんの指揮で演奏したラヴェルの左手の協奏曲だったが、糞食らえなんていうことはもう思わなかった。素直に、大天才の書いた傑作中の傑作と脱帽した。
今回は末吉保雄さんと谷川賢作さんが弾きごたえのある作品を書いてくださった。あまり個人的な経験を、純粋な創作の世界にもちこんではいけないと思いながら、末吉さんの作品を演奏していて、自分には避けて通れないことがある。脳溢血に倒れて病院に担ぎ込まれて数日の間、声も出ず、時の推移も分らぬくらい意識は朦朧としているのに、頭の中では、壊れた蓄音機のように音楽が鳴り続けていた。フランスの作曲家セヴラックの作品だった。無意識に近いこの経験と「風の伝える切れ切れの思い出」「恐怖の記憶」とは、私のなかでは微妙に重ねあい錯綜して、夢の中の荒野を彷徨っているような気持ちになる。そして思いは「野を渉る鐘」に導かれて何処へいくのだろう・・・
左手で弾くようになってから、いつも思っていた。誰かがタンゴを書いてくれないかなと。危ないほど奔放で激情に満たされながら、冷酷で、誇りと絶望が背中あわせになっている音楽。左手だけで弾くと、その凄さが一層引きずりだされてくるのに・・・そしたらクヤラというフィンランドの若者がその考えを何処かで耳にし、とてもいい曲を書いてくれた。では、JAZZは?あれも左手だけでやってみたら素晴らしいと思っていたら、谷川賢作さんがこう言われる。「初期のジャズピアノでは、ストライド・ブギウギなど、左手は重要な役割を担っていた。というか、極論すれば左手が曲の根幹で右手は装飾であった。」しめた!やった!というわけで、素晴らしく魅力的な5曲の誕生となったわけである。この2年間に間宮、林、吉松、末吉、谷川と完成度の高い立派な作品がつぎつぎに生まれ、日本のピアノ曲の地平線を大きく広げてくれたと思う。
1960年、芸大を卒業した年にデビューリサイタルを行い、その翌年には三善 晃、平尾貴四男などの邦人作品のみで第2回のリサイタルを行った。「邦人作品だけなんて、そんなの誰も聴きにきてくれないよ」と言われたが、西洋から遠く離れた日本の青年が、自分の国のものを弾かないのはおかしいと思っていたのだ。それから半世紀にもなる今、世界は大きく動き、音楽の世界でも東洋と西洋といった対比的な考え方はしなくなっている。病気から立直っての第2回のリサイタル・シリーズが邦人作品のみになったのは、意識しての結果ではなく、なるべくして自然に生まれたのであるが、面白い偶然だと思っている。
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